SALT,SUN & TIME

ローザンヌ備忘録

病院

小さい時の病院の記憶が二つある。
一つは、もう巨大な総合病院と化してしまったK病院の記憶。
もう随分たってしまったけれど、以前胃の調子が悪くて診てもらおうとK病院へ予約の電話をかけたことがあった。
何度も呼び出し音が鳴って、やっと出た受付の人の受け答えは、とてもぶっきらぼうであまりいい感じのものではなかった。
案の定、診てもらうのには何日もかかるというその返事に少しむっとしたぼくは、
「それじゃ、結構です」
と「です」の語尾を強めに言って電話を切った。
受話器の置き方も少し乱暴だったような気がする。
診てもらうのにそんなに日にちがかかるということは、病人にとっての死活問題だろうし、もしかしたら、断るための体のいい口実だったのかもしれない、とも思った。どちらにしても、病院じゃないな、とあきれかえってしまった。
でも僕が生まれた頃のK病院は(ぼくはK病院で生まれた)、大きな玄関の両脇に棕櫚が植わっていて、ちょっとした大旅館、いや保養所かな、のような風情があった。
そんなどちらかといえばゆったりとした雰囲気のあった病院で、生まれたばかりのぼくは、お尻の皮をむかれてしまったのだ。おしめをとりかえてもらうときにお尻を強く拭かれて。
とてもヒリヒリして、痛かった記憶が、って三島由紀夫じゃあるまいし覚えてるわけないよね。三島由紀夫ぐらいの天才になると、生まれたときに見た湯桶のふちをしっかりと記憶に残しているのだろうけど、凡人、それも絵に描いたような平々凡々なぼくは、小学校の頃の記憶もおぼつかないのがほんとうで、この記憶はぼくの記憶じゃないな。
この記憶は、ぼくをとてもかわいがってくれた親戚のおばさんの思い出話に大きな影響を受けている。人の顔を見る度に、その話を繰りかえすんで頭にこびりついてしまって、なんとなくぼくの記憶のようになってるんだと思う、きっと。
そしてもう一つ。
それもこの病院の記憶。
小学校に入ってからの記憶で、この病院でとても大きな注射を打たれたというもの。そんなでかい注射だったのに痛みも何も感じなかった、という記憶。
この痛みも何もなかった、ということがなんとも不思議で頭の中にずーっと今まで残っている。ほんとの話。
でこれから話そうと思っていることが、この記憶と何か関係があるのか、っていうと実は、何の関係もない。ごめん。
それは、ぼくがまだ予備校に通っている頃の話なんだ。
相も変らず、ぎゅーづめの満員電車に揺られながらぼくは予備校に通っていた。
その日はいつもよりひどい込みようで、高田馬場
「降ろしてください」
と言いながら、いつもならぐーっと押せば降りることが出来るはずのところが、逆に押し返され、ずーっと奥におしこまれてしまった。
なんだかとても情けない気持ちで次の大久保駅でやっとのことで降りたんだけど、もう予備校に行きたくなくなっちゃったんだ。なんでだか。
さっき、そのぎゅうづめの電車の車内吊りで見た明治神宮の菖蒲園が見たくなっちゃったんだ、なんでだか。
次にきた山手線は、さっきのが嘘のように空いていた。ぼくは、ゆっくりと乗り込んで一息ついた。
予備校をズル休みして世の中を諦観してる老人よろしく菖蒲園なんぞに行ってしまう自分に、なんとなくワクワクしていたんだろうな。アホだな。
原宿で降りて、明治神宮の砂利道を歩く。砂利道のあの感触は、足のうらになんだかとても気持ちよく、その砂利道だけに「じゃり、じゃり、じゃり」という音もうれしくて、足取りも軽く急ぎ足になっていた。
菖蒲園は、けっこう人が出ていて、なんとカップルが多いのに驚いた。
別に人生を諦観している老人だけが愛でるものではなかったんだよね、当たり前だけど。
菖蒲をゆっくり見たことは見たんだけど、なんだか興ざめしちゃって、今度はあの原宿の雑踏の中へ身を置いてみたい気分になったんだ。
平日の昼前のせいか期待ほどの人がいない。
スタジオVの輸入盤屋をのぞいて、竹下通りのMerody Houseに向かう。
やっぱり、こっちの通りは期待通りにごったがえしてる。いいぞ、いいぞ。
ついでに赤富士ものぞいて一往復してから、たまに原宿に来るとのぞいていた古着屋へと向かうことにした。
通りを渡り、その先の路地を奥へと入ったところにその古着屋はあった。
店の前には、カーハートのいい感じにヨレたカバーオールが飾ってある。
「いいな」
と裏をひっくり返したりして見てみるが、袖に大きなツギあとがあるし、当然買えるはずもない。中に入って、リーバイの501を物色するも、これまた買えるはずもないんだ。
一通り見て、古着屋独特の臭いの店から外に出て右手のもっと奥へいってみる。
原宿も奥のほうに行くと八百屋や魚屋、床屋とぼくの住んでる下町の雰囲気が残っていて好きなんだ。
たまには知らない道をと思って、曲がったことのない路地を右手に折れてみることにする。
すると、                             つづく  予定