SALT,SUN & TIME

ローザンヌ備忘録

宮澤賢治はサラリーマン

suzukimondo2008-11-30

宮澤賢治 −あるサラリーマンの生と死−」という新書を見つけた。
宮澤賢治がサラリーマンをしていた。営業職で忙しく外を飛び回り、それがきっかけでもともと身体の弱かった賢治は病床に着き、そして37歳という短い生涯を閉じてしまうというのである。
教師をしていた賢治がその職で生涯を通したものだとばかり思っていたのがそうではなく、一介のサラリーマンで生涯を終えたというのがどうもしっくりこなかった。それと、もしそうであったなら、どういうサラリーマンでどんな感慨を持っていたのだろうか?なんていうことが気になってしょうがなかった。読みたくなって買ってしまった。
私の中では、教師をしながら詩人であり童話作家であったはずの宮澤賢治が生前は、それで生計を立てていたわけでなかったということを初めて知った。原稿料をもらったのはたったの一回、知り合いの婦人雑誌の稿料だけだった。今では海外にまで翻訳されているというのに!
そして、やはりサラリーマンをやっていた。謹厳実直な賢治らしいサラリーマンの姿がそこにはあった。自身のある夢がかなえられるであろう会社を盛り立てるため東奔西走する賢治の姿があった。それでいい、それが当然なはずなのだが何かもの足りない。オレは何を期待してたのか。
お金のためにへこへこ頭を下げ、嘘もつき、嫌なトラブルにも巻き込まれ何かに当り散らす、そんなごく当たり前のサラリーマンの姿を期待していたのかもしれない。いや、期待していた。実際、自身の目論見どおりにうまくいかない姿を
営利卑賤の徒にまじり 十貫二十五銭にて 
いかんぞ工場立たんなど 
よごれしカフスぐたぐたの 外套着て物思ふ 
わが姿こそあはれなれ
などの詩に表し卑屈さも散見するのだが、まだまだやるぞの意思の強さだけが残るのだ。よくある話だ。余命いくばくもない自信の運命を知り、命の限りにその生を生きる。だからこそ余計にその行いが輝いて見える。ましてやあの宮沢賢治がなのであるから。そうでなければ私も気にはならなかったし。とても矛盾するようだが、余命いくばくもなくはなく永らえていく賢治の姿、サラリーマンとしてやっていく賢治の姿を見たかった。この夢の中に生きる詩人が童話作家がセールスマンとしてどうやって生きていくのか、それが知りたかった。営利卑賤の徒にまじった賢治が、それをあわれと見た賢治がどうなっていくのかを見たかった。って、答えは出てる。サラリーマンとしても大成していただろう、自身の夢をかなえるまでになってなっていただろう。
それにしても死後これだけもてはやされたことへのあわれさを感ぜずにはいられない。
死んで花実がさくものか。泣いて生きよか、笑っていこか、生きてるうちが花なのね。