SALT,SUN & TIME

ローザンヌ備忘録

パンゲ

朝、いつものように洗面台へ、そしていつものように鏡をのぞく。
たまにふ〜っと思い出すことがある。
あれは、予備校へ通っていたときのことだった。
今考えてみるとなんとももったいない1年だったなぁ、と思う。
かといってやり直したいとも思わないけれど、、、。
その日は、午後からの授業ということで早目の昼飯を食べ駅へ向かった。
もちろん授業は朝からあったんだけど自分で勝手に午後からと決めただけの話しである。
早朝の喧騒とはうって変わって、なんともゆったりとした空気が流れている駅のホームで山手線を待ちながら、先日あの満員電車に閉じ込められ身体が半分浮き上がったような格好で高田馬場までやってきて、なぜだか降りることが出来なかったことを思い出していた。
降りようともがいたのだけど乗ってくる人の波におし戻され、また同じ状態で新大久保まで行く羽目になってしまったあの日。そんなことは初めてだったのでひどくがっかりして悲しい気分になった。
山の手線も朝のラッシュ時とは違い、なんだかひどくのんびりとやってきた。
人もまばらの車内にゆっくり乗り込むと、連結部分のドアのそばにある4人がけのシートに腰をおろし、文庫本を開いた。
物語の世界に徐々に入り込んでいくところをドアを少し乱暴に開ける音で邪魔され、むっとしながら顔を上げるとその男はぼくの前で立ち止まった。
作業用のジャンパーとズボン、じゃんぱーの上からグレーのリュックを背負ってこちらを見下げる30代前半の男。その瞳には、なにやら人を小ばかにしたような色が浮んでいた。
「なんだこいつ」と思いながらも、君子あやうきに近寄らず、知らん顔しておこうという気持ちの方がまさって、見上げたこちらの目力を弱めた瞬間、その男の口からワケのわからない言葉が吐き出された。
「パンゲ」。
ほんの少し間をおいて「パンゲ、パンゲ」と中国語なのか韓国語なのかそれとも他の国なのか、ワケのわからない言葉を頭上に浴びせかけられたといった具合であった。
それだけ云うと男は、速い足取りで車両の先へと行ってしまった。
「いったいなんなんだ」とは思ったけれど、「ま、いいか」とちょっとホッとしながらまた文庫本に目を移した。
それからウン十年。鏡をみながら思うのは薄くなった頭髪のこと。
どうもあのときの「パンゲ」、少しおいて「パンゲ、パンゲ」がこの頭髪に絡んでいるような気がしてならない。「おまえはもう死んでいる」の十年殺しじゃないけれど、どうもあのときの「パンゲ」が「おまえはもうハゲている」のように「頭髪に効いているようなそんな気がする。
そんなことを朝、鏡を見るとときたまふ〜っと思い起こすことがある。
思い過ごしか、思い過ごしも恋のうち、ハゲのうちか?
って、これは作り話じゃないんだ。ホントの話しなんだからね。そんところひとつよろしくね。
しーーーーーーーん。